第0回 京極夏彦 『姑獲鳥の夏』
    ――姑獲鳥の夏はなぜ大ヒットしたか?




京極夏彦(きょうごくなつひこ)

『姑獲鳥(うぶめ)の夏』

1994/09/15初版

1998/09/05文庫版

2003/08/01四六版



 メフィスト賞創設のきっかけとなった作品。当時無名の京極夏彦の持ち込み原稿として、いきなり40万部を超えるベストセラーとなった。僕は文庫版を持っているが、2004年春に購入したそれは、すでに23版になっていた。すごい。

 物語は、二十ヶ月も身篭ったままの女性と、密室から消失したその夫の謎を軸として展開する。文士である主人公関口が仕入れてきたその話に、古本屋主人にして陰陽師の京極堂は一言「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」。やがて事件は周囲の人物を巻き込んでいく。超能力探偵榎木津、刑事木場なども登場する中、関口は久遠寺家にかけられた呪いを解くことが出来るのか――という話ですが、勿論数多の物語が重層的に折り重なっているので、筋はこんなに単純では、ないです。

 本作でデビューした京極夏彦は、番外編を除く「妖怪シリーズ」8作のみで、総計400万部を超える大ヒットを飛ばし、今や押しも押されぬ人気作家である。『魍魎の匣』で日本推理作家協会賞受賞、『続巷説百物語』で第130回直木賞受賞、『覘き小平次』で第16回山本周五郎賞受賞……現在日本の代表的作家の一人、と言っても過言ではない。デザインなども手掛け、八面六臂の大活躍ぶりは、彼自身が“妖怪”であることを窺わせる。

 さて今回は、そんな人気作家のデビュー作『姑獲鳥の夏』が、なぜこんなに人気があったのか、その点についで徒然に記してみたいと思います。



  姑獲鳥の夏はなぜ大ヒットしたか?



 『姑獲鳥の夏』の魅力について、文庫版解説で笠井潔は二つの点を挙げています。まずは人物造詣。「京極堂シリーズの魅力の大きな部分が、複数の個性的な探偵キャラクターにあることは疑いえない」。特に主役級の「京極堂」については、「『憑物落とし』を業とする陰陽師探偵のキャラクターは、あきらかに京極夏彦の独創である」として評価しています。実際、本作ではやや裏方だった榎木津などを主人公とした番外編も後に出版されており、そのキャラクター造詣は魅力の一つでしょう。付け加えるならば、京極夏彦の書く人物造詣は、決して主役クラスの人物に限られることではなく、例えばほんの一コマに登場するような人物についても、きちんとした造詣が成されていて、しかも安易でない深さがあり、それが物語の吸引力でもあるでしょう。

 笠井が挙げるもう一つの魅力が、そのメイントリックです。『姑獲鳥の夏』について、笠井はそのトリックの驚異を以って「現代本格の記念碑的傑作」と評しています。
 ここで「本格」とは、言ってしまえば「謎解きを主眼とするミステリ」のことで、エドガー・アラン・ポオ以来エラリー・クイーンとかディクスン・カーとか島田荘司とか綾辻行人とか法月倫太郎とかそういう人たちの属すジャンルです。要はコテコテのミステリです(おい)。『姑獲鳥の夏』がミステリ、それも本格ミステリという、ガチガチのジャンルに属することは、最初に「二十ヶ月身篭った女性と密室から消失したその夫」という謎が提示され、それが複数の探偵たちによって解かれていくという一連の流れが主軸であり、しかもその手掛かりは作中に散りばめられ、読者に提示されている (たぶん) ことから (きっと) 確かでしょう (ちなみに“たぶん”とか“きっと”とか弱腰なのは、「本格」という定義が曖昧模糊なものであり、人によって違うので、滅多なことが言えないからです。しかし笠井先生は本格だと認識しているみたいなので、“きっと”大丈夫でしょう)。
 本格ミステリと呼ばれるジャンルにとって、やはり最大の魅力は最初に提示される謎、そのメイントリックでしょう。ネタバレになるのでいえませんが、確かに本作のトリックはミステリ史上でも画期的なものであり、その後のミステリトリックの方向性を左右したとも言われています。従って、本作をミステリと捉えた場合、その偉大さも頷けるでしょう。

 笠井は以上のような論拠から、『姑獲鳥の夏』を屈指の名作であると捉えています。それは誤解を恐れず言ってしまえば、つまり、
  本作はまずキャラクター小説として優れており、
  そして本格ミステリとして優れている、
  ゆえにその二面性から名作である、という論理にまとめることが出来るでしょう。

 さて(やっと僕の意見)、僕はこの笠井の指摘に対して反対意見はありません。しかしながら、それだけでは指摘不足ではないか、とも思っています。つまり、笠井はあくまで「ミステリ」の枠内で本作を捉えているのではないだろうか、という点に疑問を持っているのです。

 そのことを語るには、まずキャラクター小説について僕の認識を説明しなければいけません。
 僕は、キャラクター小説というものは元々ミステリ的小説からの分派ではないか、と思っています。これは歴史的にそうだ、というものではなく、性質がそういう風に捉えることが可能だ、という意味です。つまり、(本格)ミステリにおいて、キャラクター造詣というのは非常に重要な意味を持ちます。何故なら、複数の容疑者がいて、その中に犯罪を犯した犯人がいる、というミステリの古典的設定においては、各容疑者の区別を付けるため、また単なるパズルに終わらない物語としてのミステリを作るため、キャラクターをきちんと造詣しないといけないからです。例えばアガサ・クリスティの名作『そして誰もいなくなった』では、冒頭で10人もの容疑者が勢ぞろいするにも関わらず、各々のキャラクターを巧みに書き分けることで、読者を混乱させることなく、またそれぞれに明確な人物造詣を施すことで、深みが出て、キャラクターへの感情移入を可能にしています。
 ということで、キャラクター小説というものを便宜的にミステリに組み込んだ場合、笠井の評価は次のように換言することが出来ます。つまり、『姑獲鳥の夏』は、本格ミステリの傑作である、と。

 僕は、そこに笠井が本作をミステリとしてしか捉え切れていないのではないか、という疑問を感じるのです。どういうことかと言えば、つまり本作の魅力は、僕は「ミステリとして書いた筈なのにミステリを超えている」ところにあると考えるからです。
 ミステリ、特に本格ミステリというのは、まず「謎――トリック」があって、周りの物語はその「謎――トリック」のために存在するようなところがあります。極論を言えば、登場人物の人物造詣や彼らの会話や差し込まれるエピソードといった全てのもの――それが謎のためだけに、「謎――トリック」を存在させるために作られることがあるのです。それはミステリとしてはある点では当たり前のところであり、別に非難されることでもありません。トリックと各エピソードがあまりにバラバラで脈絡なくてどうしようもないミステリなら、きっと駄作で読む気もしないでしょう。
 そしてまた、『姑獲鳥の夏』もきっと最初にこの前代未聞のトリックがあって、そのために世界観や人物が作られたのではないかな、とは何回か本書を読んで邪推するところです。全ての話は連関し、登場人物や舞台も全て最後はそこに収束していきます。
 しかしながら。
 しかしながら、本作の本当の魅力は、そのトリックのために作られた筈の世界にあると思うのです。「謎――トリック」に捧げられる筈の造形物、しかしそれ自体があまりに魅力的であるために、一人歩きを始めているのではないでしょうか。そこに本作のミステリを超えた魅力があるのではないでしょうか。
 例えば京極堂が事あるごとに話す妖怪の薀蓄。それ自体は「謎――トリック」のために必要な箇所であり、それゆえに登場人物の口を借りて語られます。しかしその中身、その面白さ、これは単に「情報」として与えられるレベルを超えています。一行一行に考え頷きながら読み進むそれは、ミステリではなく「小説」としての面白さです。

 従って、本作を「ミステリ」として読み始めた読者は、いつの間にか本作の「小説」としての面白さに引き込まれるようになります。そしてまた、「小説」としての面白さで読み進んだ読者は、最後に至ってそれが紛れもなく「ミステリ」であることを再認識させられ、その「トリック=ミステリの面白さ」に驚愕するのです。
 ミステリでありながらミステリを超え、最早ジャンル分け出来ない「小説」としての完成度、しかし「小説」として読めば矢張りそれは「ミステリ」でもある作品――その捉えどころのなさ、ジャンルを完全に超えたところに位置することが、本書の最大の魅力ではないでしょうか。

 それゆえ、僕は本書を勧める際、それがミステリとして面白いという表現は使いません。たぶんその面白さは村上春樹的であり、宮部みゆき的であり、綾辻行人的でもあるから、つまりは「京極小説」とでも表現しないことには捉えきれないと思うからです。そしてそれが、本書の魅力である、と思ってみたりするのですが。